勝負の極北なぜ戦いつづけるのか 藤沢秀行 米長邦雄
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作成日時 : 2007/02/24 22:14
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『(米長) 私は昔、プロを目指す若い人たちに「これを全部解き終えたら四段になれる」と言ったんです。全部自力で解きおわった者はプロになれると、そう言った。
(藤沢) それはそうでしょう。
(米長) そうしたら、若い連中が何人も、私の言葉を信じて解きはじめたんです。ところが、しばらく続けているうちに、「こういう局面は実戦に出ないんじゃないか」と、考えるようになってしまう。それくらい難問が続くわけです。私自身も、第一問目の六十九手詰めを解くのに、毎日六時間くらい考えて一週間かかりました。
あまりにも難問が続くから、「これは作り物だから実戦には出ない、一問解くのに何日もかけるくらいなら、最新の棋譜を何局か並べて研究するほうがはるかにいいのではないか」と、そういう考えになってもおかしくはないんです。実際、何人かの若手棋士からそういう声が出ました。
(藤沢) そうじゃないんだよね。いちばん大事なのはその過程なんだ。
(米長) 実戦にはまず出ないような、きわめて複雑な詰め将棋を、必死で解くことに意味があるんです。つまり、集中力と根気を養う。頭脳を鍛える。将棋の苦労というのは、むずかしくて自分では解けそうもない難問を、自分だけの力で答えを出そうという苦労です。そのひとつひとつの苦労が、血となり骨となります。ところが、それに気付かない人がほとんどだった。
ところが、『詰むや詰まざるや』に取り組んだ何人かの中に羽生がいて、彼はそれに十代で気付いたんです。「先生、あれには大変意味が隠されてますね。毎日毎日将棋を考えているていうことが大事で、その情熱を失わないことが大事なんですね」と、あるとき私に言ったんです。
「いつそれに気付いた?」と聞いたら、「十八か十九の時です」と。やっぱりこの男は違うと思いました。並の人間なら途中でやめるところを、あえて回り道をした。その回り道の大切さに十代で気付いていた。』
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